![]() 敦賀と琵琶湖を結んだ塩の道 |
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深坂古道の案内板 | 深坂道 |
峠道の旧称: 古代北陸道・塩津街道 峠の 標 高: 370メートル 峠の所在地:福井県敦賀市深坂と滋賀県伊香郡西浅井町沓掛の境 |
◎ 琵琶湖への最短ルート 深坂越えは古代から敦賀津と琵琶湖最北端の塩津浜を結んだ道として利用されました。 敦賀湾内の集落で製塩された塩は敦賀津から最短路で山を越え、琵琶湖の舟が利用できる塩津浜へと運ばれ、舟で大津(滋賀県)まで運送されて奈良、京都へ運ばれました。 この深坂越えは北陸五ヶ国の雑物運送の重要な官道として「延喜式」にも定められ、公定駄賃は馬一頭の荷につき、米一斗六升と規定されていました。
◎「源氏物語」の紫式部も越えた道 深坂越えに関して初めて文献に出てくるのは万葉集です。笠金村の詠んだ歌「塩津山打ち越え行けば我が乗れる馬ぞつまづく家恋ふらしも」が載せられています。 長徳2年(996)紫式部が父藤原為時とともに、この峠を越えた時の歌と詞書が「紫式部集」にみえます。 「塩津山といふ道のいと繁きを 賎(しず)の男のあやしきさまどもして 『なおからき道なりや』 といふを聞きて 知りぬらむ行き来にならす塩津山 世にふる道はからきものぞと」というものです。 これを訳しますと「塩津山という道の草木が茂っているので、輿(こし)をひいて荷物を運ぶ男たちがみすぼらしい姿をして『やはりここは難儀な道だなあ』と言うのを聞いて、 お前達もわかったでしょう。歩き慣れている塩津山も世渡りの道としてはつらいものだということが」という意味です。
◎ 琵琶湖運河の計画 峠から滋賀県側へ下った所に御堂に入った深坂地蔵が祀ってあり、平安末期、平重盛が 日本海と琵琶湖を運河で結ぼうと計画し、試掘中、掘り出されたのが深坂地蔵といわれます。 この工事は、この地蔵に当たって中止されたそうですが、その後、江戸期になって運河計画が出てきますが、結局、実現しませんでした。 ◎ 深坂越えの役目を終える 古代から中世にかけて賑わった深坂越えも近世になると新道野越えが開発されて衰退しました。 そして明治11年(1878)明治天皇の北陸巡幸に際し、北陸街道、西近江路など諸道が改修され車馬の通行が便利になりました。 深坂越えの塩津街道は急坂険路であったため改修されないまま新道野越えが改修され、その役目を終えました。 なお、古道は敦賀市追分から滋賀県西浅井町沓掛に至る約4.5kmです。 峠を境にして福井県側は往時の面影を色濃く残し歴史的景観に優れていますが、滋賀県側は 峠近くまで林道が開通し、砂防工事も進んでおり残念ながら道がはっきりしていません。 |