3搦手交通としての穴馬道(美濃街道)
この付近の坂峠や交通路の歴史を語るとき、史料や伝承に乏しく推測に頼らざるを得ません。
古くは神明社、白山社両族が草分民としてこの地域に進入し、住民の生活は地域的に小さく制限された採集経済が営まれていたと推測されます。
平安仏教の伝播と興福寺領の拡大によって越美山地の貫通交通が徐々に形成され、南北朝期頃から急に搦手交通として利用されるようになってきました。
延元3年(1338)美濃の土岐頼遠は越前黒丸城攻囲軍、搦手の大将として足利高経救援のため、この山地に侵入しています。
その後、斯波家領として大野盆地に小山城、犬山城、土橋城がつくられました。
しかし、これも守護朝倉敏景と小山城主斯波義廉の争い後、奥越から中世末の城砦は一切なくなりました。
天文9年(1540)8月29日朝倉広景は、穴馬道を通過して郡上栗柄・篠脇城を攻めますが、
向小駄良山の防戦にあって勝つことができず、翌年、再度攻めますが、逆に敗走したと美濃遠藤記に記されています。
一方、初期浄土真宗は、高田派が越美山地を通じて伝播してきました。これは、すでに天台宗の伝わってきた文化路を受け継ぎ伝播してきたものです。
この真宗路に従って、天正3年(1575)一向一揆領国の郡司、杉浦壱岐玄任軍に対して、
織田信長の武将、金森五郎八長近軍3万、原彦次郎茂政軍2万が濃州(美濃)の各峠口から越前に攻め入ってきました。
この時の進路は確認できませんが、宗教戦の性質をおびていたので一切の通路に兵を分けたものと推測されます。
各集落に残る七人塚は、この戦による村代表が犠牲になった弔い塚ではないかと考えられています。
伊勢集落には顕如の石山合戦伝承は多く残っていますが、金森戦については一切残っていません。あるいは絶滅が山間に展開されたのではないでしょうか。
慶長6年(1601)結城秀康が越前国を領するにあたり、この付近の搦手交通路の戦略的重要性を重視し、
仏峠、油坂峠、檜峠、蝿帽子峠等に関所を設け、その総関門を木本(大野市木ノ本)に設けました。
そして木本に加藤四郎兵衛康寛宗月5,000石を配置しました。更に寛永3年(1626)7月、
直系の松平直良を1万石で配置して、表街道より裏街道の秘密性を重視して監視させました。
しかし、直良以後、全国的に徳川幕府が安定してきますと木本の軍事的重要性は薄らぎ、穴馬道は経済路として利用されていきます。
天保4年(1833)大野藩の面谷鉱山が開発されると木本路(穴馬道)は、搦手幹線路として重要性を増していきました。
大野藩経営の面谷鉱山の上下荷の輸送は、すべて、この路線に関係しました。木本の牛方が炭以外の荷物一切の輸送を引受けました。
面谷鉱山は、平安時代中期の康平元年(1058)頃発見されたようですが、室町時代後期の元亀元年(1570)頃から
交通路発達の重要な要因となっていきました。そして天保3年(1832)頃から幹線路として安定していきます。
このように笹生川、伊勢川沿いに点在した村々の人達は、穴馬道、木本道を通じて大野町と結ばれ、生活物資を手に入れ暮らしていました。
しかし、明治26年(1893)油坂トンネルが開通して、急に岐阜県との交通が開けると買入品の7割は表日本に傾いていきました。
他方、唯野〜油坂道(穴馬道)は、中世末の争乱後これといった商品生産もなく、山村人の生活物資と特産の交易が細々と続いた程度でした。
これは途中に荒島山麓の峻険な小豆坂と九頭竜川の洪水害があるうえ、冬は豪雪によって人々の交通を拒絶してきたからです。
明治18年(1885)唯野から約72q区間の道路建設、改良工事が行われて箱ヶ瀬(和泉村箱ヶ瀬)までが車道となりました。
しかし、九頭竜川に架かる橋は長野上橋1本だけでしたから、朝日(和泉村朝日)は、なお幹線外に置かれていました。
明治30年(1897)頃、九頭竜川の架橋が行われ、明治42年(1909)には小豆坂の下に琴洞橋が設けられると
唯野〜油坂間の穴馬道は、完全に他の峠交通路を支線にして搦手の本道になりました。ただ、箱ヶ瀬以東はボッカ道として残りました。
昭和20年(1945)以後、牛方、馬車両交通は、トラック、国鉄バスなどの普及によって衰退し、峠交通は豪雪時や洪水時のみに使われる程度になりました。
こうして谷中分水峠下の上秋生や上伊勢等は急転、コウチ集落(谷奥集落)になっていきました。
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