まぼろしの北陸道

元比田(敦賀市)瓜生野(武生市)国府(武生市)


国道305号からまぼろしの北陸道へ 菅谷集落付近のまぼろしの北陸道


1 まぼろしの北陸道
 
 この道は山中峠を越える万葉の古道より古い北陸道だといわれます。しかし、確かな記録がないため「まぼろしの北陸道」と呼ばれています。

 往古の道は多少遠くなっても山や坂を避けて、海岸伝いの岬をぐるっと廻り浦々を経ながら歩きました。

 しかし、敦賀から河野の間は、いつの頃からか「甲楽城断層崖」という急崖が海に落込み砂浜がなくなったために、

海沿いに道ができる余地がありませんでした。そこで上ったり下がったりする道になったといわれます。

 古代北陸道が鹿蒜山中峠や木の芽峠を越える以前は、敦賀(敦賀市)から海沿いを歩き河野(南越前町)から山中に入り、国府(武生市)へ出たと考えられています。

 敦賀の東方にある天筒山を越えて田結
(たゆい)に下り、浜辺伝いに赤崎に入って、神社付近から再び山を上って五幡(いつはた)に出ます。

 次いで挙野
(あげの)から利椋峠(とくらとうげ)を越えて阿曽に下ります。そして鳥越に上って杉津に下り、海辺伝いを大比田、元比田と過ぎ、再び山中に入りました。

 さらに山中峠(南越前町・敦賀市)の北斜面を伝って菅谷(南越前町)を通り、ホノケ山の北斜面を上り、

菅谷峠
(すげんたん)を越えて瓜生野(武生市)を下り、大塩(武生市)を抜けて国府(武生市)に至ったといわれます。この付近の地図参照


廃村の菅谷集落風景 廃村の菅谷集落風景


2 道路沿いの主な地名

(1) 菅谷村
(南越前町・前河野村)

 河野川の上流、足谷山の南麓にあった集落名です。(現在は廃村になって地名だけが残る)地名の由来は末谷
(すえのたに)から転じたとのことです。

 往古は元比田(敦賀市)から国府(武生市)へ塩を送る通路に当っており、菅谷峠から大塩谷へ出た古道が、今も山の尾根に残っているようです。

 当村は越前国敦賀郡に属し、江戸期、はじめ小浜藩領でしたが天和2年(1616)から鞠山藩領になりました。

 村は豊富な山林を利用して薪や木炭を大比田浦に売ったり、山を貸したりして生計を営んでいました。

 しかし、製紙用や藍玉つくりに灰が必要になると山奥のため原木を運ぶより灰にして運ぶほうが

好都合なため灰作りが盛んになり、菅谷の木が一時なくなったといわれるほどでした。

 享保8年(1723)頃から漸く炭焼きが生業になり普及していきました。明治以降も製炭を

唯一の生業としていましたが、急激な過疎化により昭和40年代後半に廃村となりました。



整備された菅谷峠付近 ホノケ山から日野山を望む


(2) 菅谷峠(すげんたんとうげ)

 南越前町(前河野村)と武生市・南越前町(前南条町)の境界線上の「ホノケ山」(標高737m)の北寄りにある標高571mの峠です。

 この峠道は敦賀市(旧東浦村)元比田から山中峠の北斜面を伝って菅谷を通り、さらにホノケ山の北斜面を上り、

峠の頂上近くから、1つは武生市大塩の瓜生野に、1つは南越前町(前南条町)の奥野々に下る峠でした。

 口伝によると「塩の道」だといい、この道の終点が大塩だと言われ、ここで塩が売捌かれたようです。

 主として旧東浦村の下四ヶ浦の元比田、大比田、杉津、横浜などで生産された塩は菅谷峠に担ぎ上げられ大塩などへ運ばれました。

 往古、大谷浦以外の大良、河野、今泉、甲楽城、糠などの各浦でも小規模ながら「製塩」が行われ塩浜もあったようです。

 浜伝いに道があったことは「古名考」によって明らかですが、いつしか砂浜がなくなり、

塩浜が消滅して塩の生産がなくなり、それとともに浜伝いの道が高所に移り菅谷道になりました。

 「塩の道」は道の中でも古道に属するといわれ、古代、塩は貴重品で人々は遠方から塩を求めてやってきました。

 こうして「塩の道」は古い形の峠道であり、全国的に山の尾根筋につけられた所が多いといわれます。


ホノケ山遠景 ホノケ山近景


(3) ホノケ山(南越前町・旧河野村・旧南条町)

 南条郡南越前町(旧河野村・旧南条町の境界)にある標高737mの南条山地の一峰で、日野川河谷以西では最も高い山です。

 東流して日野川に入る奥野々川と西流して日本海に入る河野川を分けます。北にある

足谷山との間に菅谷峠
(すげんたんとうげ)があり、河野(旧河野村)と武生市、鯖波(旧南条町)を結びました。

 また、南には河野から菅谷
(すげのたに)を経て湯尾(旧今庄町)へ至る灰坂峠がありました。

 登山愛好者に人気があり、JR南条駅から奥野々川に沿って登るコースが一般的で山頂から敦賀半島や日本海が眺望できます。

 ちょっと珍しい山名なので、その由来を調べてみました。諸説ありますが、一般的には「火の気
(ひのけ)」が「ホノケ」に転化したようです。

 往古、火急の連絡には「狼煙
(のろし)」が使われました。山頂で火を焚き、日中には立ち上る

黒煙を、夜間には空をも焦がす火柱を焚いて合図を送り、火急を知らせました。

 当時、燃え方によって、それぞれ合図が決められていたようです。大和王朝初期の「越」は「外国
(とつくに)」であり、王朝の勢力が徐々に浸透していった地域です。

 このため常に各地で反乱が起き、「国司」が常駐していましたが、狼煙を使って「火急の連絡」をしなければならないことが多かったのでしょう。

 だから、上は役人から下は百姓に至るまで「ホノケ山」に上る狼煙に注意しなければなりませんでした。



(4) 大塩谷と瓜生野(武生市瓜生野町)

 菅谷峠を越えて北に向かい大塩谷を下りますと瓜生野村に至ります。さらに進んで大塩から国府へと続きました。

 「瓜生野」は足立山の北麓、大塩谷川の最上流域に位置した古い村ですが、記録がないためよく分かりません。

 ただ中世には「大塩保」に属していたと推定され、近世の瓜生野村は越前国南条郡に属し福井藩領でした。

 幕末に記された瓜生野、奥野々村の願書(武生市立図書館保管文書)に「瓜生野、奥野々両村の持山を通って

菅谷村、比田浦へ運送されている諸色、米穀を止めるため、掘切れをつくれと命ぜられたが、人夫不足なので加勢の人夫を出してくれ」との要請文があります。

 これから推測すると瓜生野や奥野々から菅谷峠を利用した菅谷村、比田浦への物資輸送が、幕末まで盛んだったことが窺われます。

 「大塩」という地名の由来も記録がないため分かりませんが、ただ往古、比田浦方面から運ばれてきた塩が「大塩」で捌かれたことに由来するといわれます。



(5) 奥野々(南条郡南越前町・旧南条町)

 日野川の支流奥野々川の上流に位置した地域で、かつては木地の製造が盛んに行われ、中世の奥野々村は杣山荘に属していたといわれます。

 近世、奥野々村は、越前国南条郡に属し福井藩領でした。当村は西方の菅谷峠越えで河野浦へ通じる道沿いに位置していたので、江戸期、福井藩口留番所が置かれました。



(6) 灰坂峠

 ホノケ山の南方にある峠は「灰坂峠」と呼ばれ、麓の村々で生産した灰を背負って峠を越えたので、この名がついたといわれます。

 峠の麓の菅谷村は、往古から山の木を伐採して薪にしたり、「木炭」を作って米と交換して生活を支えてきました。

その後、「灰」の需要が高まり「灰づくり」が盛んになりました。隣の「大桐」(南越前町大桐)でも灰の生産が盛んだったようで、

「大桐」とは「大切」とも書かれ、山の木が大量に切られたので「大切」になったといわれます。

 つまり、この辺の村々は「炭」も焼かれたのでしょうが、「灰づくり」が盛んだったようで、灰づくりは明治時代まで続けられました。

 ところで「灰」は商品として何に使われたのでしょうか。古くから灰は「灰汁
(あく)」を利用して、麻織物の原料となる麻の繊維を漂白するのに使われました。

 この漂白性を利用し、染物屋(紺屋)や紙を漉く製紙業者達が「灰」を買い求めました。

 紺屋は府中(武生市)の町に、製紙業者は五箇・大滝(今立郡今立町)にあったので、それぞれの購入先へ運ばれました。

 五箇などへは、灰坂峠を下って湯尾(南越前町)に出ると日野川を渡り、牧谷峠を越えて味真野を経由して運ばれました。


主な参考文献

越前/若狭  歴史街道  上杉喜寿著
越前/若狭 峠のルーツ  上杉喜寿著
日本地名大辞典18福井県  角川書店