(4) 大塩谷と瓜生野(武生市瓜生野町)
菅谷峠を越えて北に向かい大塩谷を下りますと瓜生野村に至ります。さらに進んで大塩から国府へと続きました。
「瓜生野」は足立山の北麓、大塩谷川の最上流域に位置した古い村ですが、記録がないためよく分かりません。
ただ中世には「大塩保」に属していたと推定され、近世の瓜生野村は越前国南条郡に属し福井藩領でした。
幕末に記された瓜生野、奥野々村の願書(武生市立図書館保管文書)に「瓜生野、奥野々両村の持山を通って
菅谷村、比田浦へ運送されている諸色、米穀を止めるため、掘切れをつくれと命ぜられたが、人夫不足なので加勢の人夫を出してくれ」との要請文があります。
これから推測すると瓜生野や奥野々から菅谷峠を利用した菅谷村、比田浦への物資輸送が、幕末まで盛んだったことが窺われます。
「大塩」という地名の由来も記録がないため分かりませんが、ただ往古、比田浦方面から運ばれてきた塩が「大塩」で捌かれたことに由来するといわれます。
(5) 奥野々(南条郡南越前町・旧南条町)
日野川の支流奥野々川の上流に位置した地域で、かつては木地の製造が盛んに行われ、中世の奥野々村は杣山荘に属していたといわれます。
近世、奥野々村は、越前国南条郡に属し福井藩領でした。当村は西方の菅谷峠越えで河野浦へ通じる道沿いに位置していたので、江戸期、福井藩口留番所が置かれました。
(6) 灰坂峠
ホノケ山の南方にある峠は「灰坂峠」と呼ばれ、麓の村々で生産した灰を背負って峠を越えたので、この名がついたといわれます。
峠の麓の菅谷村は、往古から山の木を伐採して薪にしたり、「木炭」を作って米と交換して生活を支えてきました。
その後、「灰」の需要が高まり「灰づくり」が盛んになりました。隣の「大桐」(南越前町大桐)でも灰の生産が盛んだったようで、
「大桐」とは「大切」とも書かれ、山の木が大量に切られたので「大切」になったといわれます。
つまり、この辺の村々は「炭」も焼かれたのでしょうが、「灰づくり」が盛んだったようで、灰づくりは明治時代まで続けられました。
ところで「灰」は商品として何に使われたのでしょうか。古くから灰は「灰汁(あく)」を利用して、麻織物の原料となる麻の繊維を漂白するのに使われました。
この漂白性を利用し、染物屋(紺屋)や紙を漉く製紙業者達が「灰」を買い求めました。
紺屋は府中(武生市)の町に、製紙業者は五箇・大滝(今立郡今立町)にあったので、それぞれの購入先へ運ばれました。
五箇などへは、灰坂峠を下って湯尾(南越前町)に出ると日野川を渡り、牧谷峠を越えて味真野を経由して運ばれました。
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