3 峠の主な歴史
(1) 飛鳥期の古代北陸道は、この峠を越えたのか?
古代、ヤマト朝廷が飛鳥地方から近江・越前(越・高志)へと勢力を拡大させた飛鳥期(592〜714)、
北陸道(官道)はどのような経路を進んだのでしょうか。関心のあるところですが、長い時代の変遷の中で消えていき、今は特定することが困難です。
各種文献をみると学者は「延喜式」(西暦927完成)に基づく駅制や平城京跡の出土木簡などを手掛りに経路を推定しています。
これら文献から知り得た近江から越前への経路を要約すると次のようになります。
@ 近江から若狭経由で越前(越国・高志国)へ進んだとする説
(水坂・関峠越ルート)
A 近江から越前へ進んだ本道(七里半越)と近江から若狭経由
(水坂・関峠越)で越前へ進んだ支道があったとする説
(本道・支道2本立ルートA)
B Aと同じ本道・支道はあったが、支道は越前経由(松原駅
・関峠越)で若狭へ進んだとする説(本道・支道2本立ルートB)
C 近江・越前国境の七里半越(西近江路)を進んだとする説
(七里半越ルート)
D 近江・越前国境の白谷越(黒河越)を進んだとする説
(白谷越ルート)
E 近江・若狭国境の粟柄越を進んだとする説
(粟柄越ルート)
原初北陸道は、何れかの経路で進んだのでしょうが、時代とともに律令制度が
変質、崩壊していく過程で、交通制度や官道も変容したでしょうから特定することは至難なことです。
これら諸説、見解が分かれる中で「越前・若狭峠のルーツ」の著者上杉喜寿氏は、飛鳥期の北陸道をDの粟柄越ルートで記述されています。
筆者は飛鳥期、近江から越前へ抜ける北陸道を粟柄越ルートと考え、その後、七里半越ルートに変化したと推測しています。
近江の鞆結駅(高島市マキノ町石庭付近)から越前の松原駅(敦賀市松島町付近)へ向かうのに、
地形上、最短かつ直線で結ばれる白谷越ルートも検討されたようですが、この経路は近江から峠を越えた越前側の黒河谷が
風化した花崗岩質の複雑な地形を有する山岳地帯で、八手のように多くの黒河川支流の流下と
深い谷間を形成しているため、古代、官道の開削は技術的に困難であったと考えています。
事実、ここは長い間、秘境といわれ峠越する者もなく、近年、やっと林道がつけられた地域です。
こんな理由で白谷越ルートは、犯罪者や逃亡者がこっそりと利用した間道(裏街道)があった程度であるとしています。
(2) 中世以来、城米や海産物・炭が運ばれた峠道
粟柄越で耳川流域を下りますと古代北陸道の弥美駅(美浜町河原市付近に比定)に至ります。
その近くには今も河原市、郷市、南市といった地名が残されていることから考えて
この地域が古代から交通の要衝として、あちこちに市が立ち、商売が盛んに行われ、貨客の往来が頻繁であったと推定されます。
戦国期には新庄を経由し近江へ抜ける交易路として利用されたことが、天正9年(1581)に信重という人物が
若狭からの塩荷を新庄馬借と同様に、近江今津にも仰せ付けることを今津地下人に認めていることからも窺えます。
近世初期、京極氏が若狭小浜藩主になると若狭三方郡の城米は、この峠道を利用して大津へ送られました。
寛永4年(1627)蛭口(ひるぐち)村(高島市マキノ町)と若狭三方郡が協定を結び、粟柄と蛭口の間に
新道をつくって米穀荷物を運んだため、これまで粟柄越(赤坂街道)の運送に関ってきた近江西浜、牧野、
上開田、下開田、寺久保の五ヶ村(高島市マキノ町)と争論になり、新道が停止されたという記録があります。
寛永11年(1634)京極氏が出雲松江に移封となり、その後任に酒井忠勝が入封すると峠下の粟柄に口留番所を設け、積荷や通行人を検査しました。
宝暦8年(1758)近江白谷村の者が若狭の炭や村内産の炭などを積み、牧野村にさしかかると
牧野、寺久保、上開田の者が粟柄越の荷を積んでいると難詰し紛争を起こしたという記録も残っています。
宝暦12年(1762)には若狭北方(美浜町日向・早瀬・丹生)の漁荷を知内浦(高島市マキノ町)へ送り、
ここから湖上輸送で京都へ届けた記録もあり、北方地方にとっても、この峠道は重要な道だったようです。
このように粟柄越は若狭と琵琶湖を結ぶ道として七里半越(西近江路)や九里半越(若狭街道)より
距離的に近かかったので盛んに利用されましたが、険峻な峠越えだったことから運送には多くの牛馬が使われました。
この道の駄賃取は、牧野、上開田、下開田、寺久保、西浜の五ヶ村の権利として古くから認められていたようで、
元禄8年(1695)牧野村を除く4村が、昔から牧野村と4村は同じ権利があると訴えていますが、本村である牧野村が有利だったようです。
江戸末期になると5村から西浜村がはずれ、文化元年(1804)には4ヶ村の間で荷物の奪い合いが起きて定書を結んでいます。
文久元年(1861)若狭山奥の炭1千俵を西浜村まで運送する駄賃は、牛1駄に80文とされていました。
このように粟柄越は、若狭と近江を結ぶ峠道として古代から盛んに利用され、明治20年(1887)頃まで耳川筋の海産物や木炭を近江へ運ぶ重要な道筋でした。
|