(3) 保坂村(滋賀県高島市今津町保坂)
水坂峠から南東へ約2q下った今津町西部の山地集落で、琵琶湖畔の今津と若狭湾の小浜を結ぶ九里半街道(国道303号)と
高島市を南北に走り朽木谷を経て京都へ通じる若狭街道(敦賀街道とも呼ぶ。国道367号)が交差する街道の要地です。
今でも分岐点の近くに「左わかさ道 右京道 左志ゅんれいみち 今津海道 保坂村(安永4年)」の道標が残っています。
高島郡に属した保坂村は、慶長5年(1600)旗本朽木領となり村高82石余がありました。
明治13年(1880)の戸数37軒、人口177人とあり、村人は農業のかたわら養蚕と炭焼きに従事していました。
明治22年(1889)高島郡三谷村の大字となり、昭和30年(1955)今津町の大字となりましたが、この頃の戸数は32軒、人口は139人と記されています。
当地には中世、室町期から保坂関が置かれて比叡山の管理下にあり、その関務は朽木氏が預かっていました。
この関の設置年代は、文明4年(1472)以前であることは確かで、朽木家古文書にみえる保坂関からは享徳年間(1452〜1455)頃まで遡る可能性があるということです。
しかし、この関は複雑な権利関係にあったようで、度々、紛争が起こっています。
3 峠の主な歴史
(1) 古代北陸道の峠道
この峠道は、飛鳥期から大和朝廷と若狭国府を結んだ古代北陸道の道筋に当たり、往古に開発された峠道です。
若狭湾と琵琶湖を結ぶ諸ルートのうち、最も起伏が少なく古代北陸道の三尾駅(安曇川町三尾里に比定)から分かれて水坂峠を越え
玉置駅(若狭町玉置に比定)を経て若狭国府に達した官道であり、また、若狭の海産物、
塩などが近江勝野津(高島市高島町)へ運ばれ、ここから湖上で大津へ回漕されて都へと運ばれました。
このように古代の若狭・越前からは北陸道を陸路で琵琶湖の北岸へ出て勝野津、塩津から大津まで船で諸物資を運送するのが主要ルートでした。
また、古代若狭国の租税は、この峠道を通って勝野津(高島市高島町)へ運ばれ、湖上を大津へ回漕されました。
(2) 中世以降、諸物資運送で盛んになった峠道
平安遷都以降、若狭と京都を結ぶ道として保坂で分岐し、朽木谷を経て京都へ向かう道(現国道367号)と
木津を経由して湖上を大津、京都へ向かう道(現国道303号)の2本の往来が盛んになります。
とくに中世以降、若狭小浜津(古津、西津)から湖西の諸湊への諸物資運送の道として重視されました。
飛鳥・奈良期以降、勝野津へ運ばれた諸物資は、平安中期以降は木津(高島市新旭町)へ運ばれ、やがて中世後期には今津(高島市今津町)が台頭してきます。
室町期になると若狭小浜湊は北からは津軽船、南からは南蛮船が着く湊に成長し、
街道は若狭小浜から今津への経路が主流となり、この間の距離が九里半あったことから九里半街道と呼ばれました。
こうして中世から近世前期には交易の発展とともに北陸諸国の貢米や特産物の京への輸送路として小浜・今津間の九里半街道が幹線交通路になりました。
この街道の通商権を高島・今津などの商人連合である五箇商人が握り、享禄年間(1528〜1531)以降、湖東の保内商人が割り込んで争論になるなど重要な街道でした。
(3) 織田信長が越前侵攻で通過した峠道
元亀元年(1570)4月20日、織田信長は越前の朝倉義景を討つため京都を出発しました。
これに従う武将は徳川家康、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀らの錚々たる面々で、
その数、拾数万とも一説では3万とも云われる織田軍勢が近江坂本から琵琶湖の西岸にある
西近江路を北上し、若狭方面へ折れて水坂峠を越えて若狭熊川で一泊しました。
その後、敦賀の手筒城、金ヶ崎城を攻略し、朝倉氏の拠る一乗谷へ迫ろうとしたときです。
信長は北近江一帯を支配していた信長の妹婿、浅井長政が朝倉方に味方したことを知りました。
急遽退却しなければ両軍に挟まれ袋のネズミになることを察知した信長ですが、
岐阜へ戻る道は閉ざされ、京都へ戻るには琵琶湖畔に布陣する浅井軍、六角軍を破らなければなりません。
また、朽木谷を通り抜ける道が京都への近道でしたが、そこは浅井氏と和議を結んだ朽木氏がいました。
信長が思案していると松永久秀が進み出て「私が朽木元綱を説得します」と言い切りました。
久秀といえば主君の三好長慶を滅ぼし、将軍義輝を自殺に追い込み、東大寺大仏殿を焼き払った男です。
信長は切迫した危機を脱出するため、この恐るべき野心家に賭けました。
すでに60歳を越えていた久秀は、山道を駆けて朽木へ行き、元綱に会いました。
久秀と元綱は信長の勢いに賭けることを決め、元綱は幼い息子を人質として差し出すことで信長に恭順の意を示しました。
信長はわずか10人ほどの手勢を率い、夜陰に紛れて国吉城の粟屋勝久の誘導で朽木に入り、
元綱に迎えられた信長は館で休息後、元綱配下の案内で馬に乗り、険しい山道を南下し、花折峠から大原を抜けて京都へ無事辿り着きました。
その後、元綱は信長の家臣となり、秀吉の政権下で従五位下河内守となって検地の任に携わったことが知られます。
松永久秀は7年後、信長に攻められ信貴山城で滅びました。
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