(2) 白峰(石川県白山市白峰)
白山西麓の山間地にあって、中央を手取川上流の牛首川が北流し、両岸の山地からは、多くの支流が同川に合流している地域です。
この地名は、白山山麓に近いことに由来しますが、これは明治9年(1976)牛首、風嵐2ヶ村と白山権現領(河内)(注4)が合併し、成立した村です。
当地は平安末期から鎌倉初期にかけて、牛首の集落が成立したものと考えられ、
越前側の白山麓の村々のように木地師の集落として成立した可能性が大きいといわれます。
集落成立当初から原始的な焼畑耕作形態である薙畑(なぎはた)が出作り方式をとって
営まれていたらしく、河岸段丘上の平地が著しく狭小なため水稲耕作を十分に展開できませんでした。
明治12年(1879)の戸数426、人口3,716・牛2・馬24、ほかに寺院1(真宗大谷派林西寺)、学校2、
真宗大谷派の3道場(うち2つは明治12年、寺号公称を許可され、行勧寺、真成寺となりました。)、神社1(八坂神社)がありました。
明治29年から同32年(1896〜1899)にわたる水害によって、赤岩・市之瀬の出作り農家70余戸のうち32戸が北海道へ移住するなど離村者が増加しました。
昭和24年(1948)から石川県石川郡に所属、白峰・桑島・下田原の3ヶ村が合併して、旧白峰村を継承しました。
主たる生業の出作り農業(焼畑農業)は、昭和9年(1934)の322戸を境に昭和25年頃(1950)から急激に衰退していきました。
昭和50年(1975)手取川本流多目的ダムの建設に伴い、下田原全戸と桑島の大半の住民が村外に移住しました。
現在は国道157号が整備され、北は金沢、南は福井県勝山市方面からのアクセスも良くなりました。
山麓には白峰温泉があり、民宿・ホテルなどもできて、春は山菜とり、白山登山、夏スキーなどの利用者が多くなっています。
3 谷峠の歴史
(1) 歴史上、初見される谷峠
谷峠が史料に初見されるのは室町中期からです。この頃、越前守護職は斯波氏でしたが、在国せず京都を活躍の舞台にしていました。
このため越前国に守護代として甲斐氏を置き、その下に守護代々として朝倉氏がおりました。
朝倉孝景の頃、守護職斯波家に相続争いが起り、斯波義敏と斯波義廉(よしかど)が対立、これに足利将軍家の跡継争いが絡んで、世にいう「応仁の大乱」となりました。
斯波義敏は細川勝元と組んで東軍に属し、斯波義廉は山名宗全と結んで西軍に属しました。
朝倉孝景は甲斐常治とともに当初、西軍に参加しましたが、守護職を与えると誘われて東軍に寝返り、昨日まで味方であった甲斐常治を攻めました。
甲斐常治は、この戦に敗れて加賀へ逃げ、加賀の守護職富樫政親の弟、幸千代丸に助勢を求めました。
当時、幸千代丸は石川郡福岡村付近一帯(河内谷)を領有していましたが、甲斐氏を助けて河内谷から牛首に出て、この谷峠に布陣して朝倉氏を牽制しました。
(2) 加賀一向一揆の越前侵入
室町末期の永正年間(1504〜1520)加賀一向一揆勢は門徒農民の国を越前にもつくろうとして、しばしば越前国へ侵入を繰り返しました。
その別働隊が加越国境の搦め手にあたる牛首谷を通過し、谷峠を越えて平泉寺を狙い、朝倉氏撃破の機会を窺っていたわけです。
天正2年(1574)加賀一向一揆に支援された和田本覚寺や藤島の超勝寺が越前門徒を引き連れ、
朝倉氏に代って越前守護となった桂田長俊を一乗谷に襲って自害させた富田長秀を府中城(武生市)に攻め滅ぼし、その余勢をかりて平泉寺を襲いました。
平泉寺は、この時「北山七家衆」(七山家)の門徒達に焼打ちされたのですが、谷峠から潜入した加賀一向一揆勢は、
五所が原(勝山市)から木根山、小原(勝山市)に出て七山家衆と合流し、平泉寺を背後から急襲したといわれます。
(3) 織田信長と越前・加賀一向一揆の谷城攻防戦
天正5年(1577)織田信長は加賀一向一揆せん滅の討伐軍を繰り出し、一揆の本拠であった加賀山内庄を攻撃するため
同年11月、柴田勝家の一族、柴田義宣を別働隊として谷峠から牛首谷に攻入らせ、山内庄(石川県の手取川上流域を中心とした地域)の背後を奇襲する作戦をとりました。
この時、加賀一向一揆と連携した越前一向一揆の西脇惣左衛門らは谷城に籠って抵抗し、柴田義宣は、この戦で戦死しました。
牛首村の象ヶ崎三太夫は西脇を助けるため牛12頭に米俵を積み、谷峠まで来ましたが
落城を知り牛ノ角に松明をつけて、谷村まで追い落としましたが成功しませんでした。
この戦で谷城も集落も焼かれてしまいましたが、この頃、戦のため大部隊が往来できるように
峠道は改修され、谷峠を確保することが各陣営にとって戦略上の重点になっていました。
この戦で織田方に助勢した牛首村の豪族加藤籐兵衛は、その後、白山麓一帯の権勢を握って谷峠の改修にも意を注ぎました。
越前側の石畳道や加賀側の板坂などの改修も彼の奉仕によるものといわれます。
(4) 江戸期以後の峠道改修と往来
慶長11年(1606)7月、越前藩主結城秀康は白山温泉へ湯治のために谷村まで乗馬し、峠は牛で越えたと伝えられます。
明暦(1655〜1657)の白山紛争(注5)の犠牲者として加藤藤兵衛が追放された後、代って牛首の織田家が谷峠はじめ大道谷道(牛首道)などの補修を行いました。
時代が下り明治26年(1893)に改修、大正13年(1924)再改修され、昭和15年(1940)から谷トンネル掘削工事が着手されました。
しかし、太平洋戦争のため中断し、戦後の昭和24年(1949)に完工しました。この頃、勝山、白峰間の物資運搬は「歩荷(ぼっか)」に頼っていました。
歩荷は勝山を朝2時に出発し谷村で朝食をとり、谷峠を越えて牛首村(白峰)の枝村、堂ノ森村の仏平で昼食をとり、夕方6時頃、牛首村に着いたといいます。
運んだ荷物は主に米でしたが、米1俵と酒2斗などで米の上には魚・呉服類・小間物を載せました。
牛首村で一泊し、翌朝6時に出発して谷村で昼食をとり、午後3時か4時頃に勝山町に着きました。
牛首村からは主として生糸を、生糸なら10貫、板なら5坪か7坪を運搬するのが1人前だったようです。
(5) 注釈
注1:白山禅定道
白山本道とも称し、白山修行のために登拝する道をいいます。越前からは勝山の平泉寺(白山神社)、加賀からは白山寺(白山比盗_社)、
美濃からは長滝寺(白山神社)より登拝し、その拠点である越前・加賀・美濃の3馬場は「白山之記」によれば平安期の天長9年(832)には成立していたと伝えられています。
越前馬場からの白山本道は、平泉寺奥ノ院三ノ宮から三頭山へ登り、大師山山頂の白山伏拝からの道と合流し、法恩寺峠(法恩寺山)を越えて白山伏拝に至ります。
ここから急坂を下って滝波川上流の早内森(わさもり)に達し、雉子神を経て小原峠(川上峠)を越えて三ッ谷へ出て一ツ瀬(市ノ瀬)に着きます。平泉寺から一ツ瀬までは9里半あったといいます。
一ツ瀬からは現在は旧道と呼ばれる道を弥陀ヶ原、室道平に達して御前峰へ登拝しました。近世、一ツ瀬に平泉寺の一ツ瀬平泉寺役所が設置されて山札銭の徴収や白山の管理をしました。
近世中期になると勝山から小原村(勝山市)を経て早内森に至る小原越、谷峠を越えて牛首から一ツ瀬に至る牛首通りが利用されるようになりました。
注2:池大雅
江戸時代中期の文人画の巨匠。池大雅は白山に3回登拝しております。3回目は宝暦10年(1760)7月3日に、この峠を越えたと小遣帳に記載されてあり、
同行2人と白衣姿で、2日の晩は勝山の北六呂師藤左ヱ門方で泊めてもらい、3日にはその家の長左ヱ門に荷物を持たせ、案内方々牛首まで送らせています。
注3:七山家(ななやまが)
戦国期、越前大野郡に属し、滝波川上中流域一帯を指した地名です。史料の初見は大永4年(1524)の平泉寺臨時祭礼稚児流鏑馬の費用を負担した連署状に
「七山家口取事」として、ひもの口、筏口、蓑・笠・榑の口、箕・さうけ・うす、その他の諸口を先規より取っているとあります。
これは恐らく七山家の人々の生産製作した前記の品々を滝波川と九頭竜川の川舟によって積み出した際、下司中村氏が藤島付近で関銭を徴収する権利を有していたことを示しています。
天正2年(1574)の越前一向一揆蜂起には七山家衆も参加し、同年4月14日には村国山(勝山市)に籠城し、亀毛のアゼチ兵衛尉、兎角の西の六左衛門、蛭牙の東の孫右衛門、
虚亡の道場の左近太郎、同掃部入道道世、岸陰の弥次右衛門らを大将として戦い、攻撃してきた平泉寺勢を撃退するなど平泉寺攻略のための重要な役割を果したと伝えられます。
「越前城跡考」には「七山家ト云フハ小原村、木根橋村、谷村、皮合村(河合村)、六呂師村、杉山村、中野俣村右七ヶ村也」とあります。
注4:白山権現領(河内)
江戸期の寛文8年(1668)、幕府裁定により加賀・越前両藩間の白山紛争が解決した結果、白山禅頂は、平泉寺領として管理されることになりました。
以後、平泉寺は白山10里(約39`)四方及び白山と平泉寺を結ぶ道筋幅20間(約36m)、長さ6里(約24`)余を支配することになったわけです。
その後、正徳・享保期(1711〜1736)の牛首・風嵐両村と平泉寺との白山争論後、牛首・風嵐両村は白山禅頂に対する権利をすべて喪失したほか、
白山麓の河内と呼ばれた三ッ谷、赤谷、一ツ瀬(市ノ瀬)の3集落地域も失い、平泉寺が支配する白山権現領(白山社領))となって、これが明治5年(1872)11月まで続きました。
注5:明暦の白山紛争
明暦元年(1655)、加賀前田家の白山山上堂建立発願により尾添村に杣取が命じられ、越前側の牛首・風嵐両村との争論になりました。
加えて福井藩からも再三の抗議や確認の使者が遣わせられ、村同士の対立は徳川親藩の福井藩と外様大名の加賀藩との対立に発展しました。
寛文6年(1666)加賀藩は幕府に対して尾添・荒谷両村を幕府へ返還したいと上申しました。この背景には二村を切り捨てることにより、加賀馬場禅定道の中宮村を加賀藩領のまま存続させようとの意図も絡んでいました。
寛文8年(1668)、この提案が幕府に認められ、これまで福井藩領だった白山麓16ヶ村を含め、尾添・荒谷両村が幕府直轄地となりました。これが白山麓18ヶ村成立の経緯で、幕末まで存続しました。
なお、この地域は加賀・越前両国のいずれにも属さなかったとする説があります。この白山紛争の犠牲になったのが代々、郷代官として白山麓を支配してきた牛首村の土豪加藤藤兵衛で、
この紛争解決のため弓・鉄砲使用という軍事行動を責められ、延宝元年(1673)に追放処分を受け、4代150年余続いた加藤氏の牛首支配は終わりました。
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