◎ 高浜(大飯郡高浜町)
高浜は高浜湾に面し丹後街道に沿った所にあり、地名は中世、室町期から見え、大飯郡木津荘に属しました。
明徳4年(1393)5月、丹後国(京都府)天の橋立へ参詣途中の将軍足利義満が「木津荘高浜の矢穴」を一見し、高浜の玉花院に1日逗留したといわれます。
この矢穴(八穴)とは、波の侵食によって穿たれた天王山と城山の間にある8つの穴を指し、名勝として知られました。
戦国期、武田氏が若狭領国を支配した頃、その家臣、逸見氏が高浜城に入り、丹後兵の侵入に備えました。
永正14年(1407)6月、丹後加佐郡の一揆が若狭に攻め入ったとき、逸見豊前守や本郷の国人、本郷政泰らが「高浜之要害」を防備しています。
永禄4年(1561)5月、高浜城主逸見昌経が守護武田氏に叛く事件が起きました。
このとき敦賀郡司朝倉景紀は武田義統の要請を受けて若狭高浜へ出兵し、逸見昌経の拠った「松尾ヒル畠」を攻撃し
「高浜、同城下、青郷」まで焼き払ったため逸見昌経は逃亡しました。
その後、逸見昌経は織田信長と結び、武田氏滅亡後、信長から高浜城主の地位を認められますが、天正9年(1581)病死しました。
その後、高浜城主の変遷は、大飯郡の項で説明したので省略します。
このように高浜は永禄8年(1565)頃に築かれた高浜城の城下町を形成しましたが、
寛永11年(1634)酒井家の若狭入封によって城が廃され、熊川、佐柿と並ぶ町場として町奉行が置かれるようになりました。
元禄年間(1688〜1703)には石塚町、横町、赤尾町、本町、中町、大西町、今在家町、岸名町などの町があり、家数500余戸、農漁工商が雑居した在郷町になりました。
延享3年(1746)の家数は浦方175軒を含めて603軒で、他に16の寺庵があり、人数は2,567人でした。
文化4年(1807)には家数は672軒、人数2,738人、寺16ヵ所、社4ヵ所と増加しています。
明治22年(1887)塩土、若宮、三明、事代、宮崎の5町と子生(こび)、坂田、中津海、鐘寄、畑、立石、薗部、岩神、笠原の9ヵ村が合併して高浜村になりました。
明治34年(1901)舞鶴鎮守府開庁に伴い、当村は軍港区域及び要塞地帯となりました。
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