![]() ![]() 奈良時代の北陸道 |
![]() |
敦賀市杉津付近から敦賀湾を一望する |
1 はじめに これまでに越前・若狭の諸街道の中で西近江路(古代北陸道)を案内しました。この道は敦賀から国府(武生)へ向かう途中、 木の芽峠を越えて今庄(鹿蒜)へ出る道ですが、利用されるようになったのは平安初期の天長7年(830)からといわれます。 それでは木の芽峠を越える以前は、どのような道筋を利用していたのでしょうか。木の芽山地で最も古いと思われる陸路を探訪してみました。 2 律令制下の官道と役割 大化元年(645)日本は大化改新により、律令制中央集権国家が成立しました。そして中央と地方を結ぶ連絡手段として 主要幹線道路に駅馬を常備させる駅馬の制を採用しました。各駅に備える駅馬は大路で20匹、中路で10匹、小路で5匹と定められ、 中央から地方へ地方から中央へ急を要する命令や報告を伝達するために馬の脚力を用いました。 北陸道は小路に格付けされ、越前に8駅、若狭に2駅が置かれました。なかでも敦賀津の松原駅から鹿蒜駅(かえるえき)へ向かう陸路には、 木の芽山地(最高峰の鉢伏山で海抜762m)が海岸まで迫っており、南北の交通を大きく遮っていました。 このため敦賀津から舟を利用した海上交通が盛んに利用されたようですが、本稿では陸路で進みます。
3 松原駅(敦賀市)から鹿蒜駅(今庄町南今庄)への道 奈良期の旅人は松原駅(敦賀市)を出発すると、樫曲、越坂、ウツロギ峠など小坂を上り下りし、 五幡、杉津を経て比田から山中峠を越え鹿蒜駅(今庄町南今庄)に至ったといわれます。 この頃、越国(高志国)に東大寺荘園などが盛んに開発され、平城京(奈良県)との間を往来する人や諸物資が相当数あったと考えられます。 万葉集にある大伴家持の歌に「可敝流廻(かえるみ)の道行かむ日は五幡(いつはた)の坂に袖振れわれをし思はば」(万葉集巻十八)によっても、それが窺えます。 「可敝流」は鹿蒜川流域の地のことであり、「五幡の坂」は山中越えのことであるといわれます。 また、山中峠から木の芽峠一帯の山並みを「かへる山」と称し古歌にも数多く詠まれています。 平安初期の天長7年(830)木の芽峠を越える新道が開かれました。この道は国府(武生市)への直線に近い峠であったことから官道になりました。 一方、山中峠を越える道は交通量は少なくなりましたが、その後も利用されたようです。 4 主な地名と旧蹟 ◎ 松原駅(敦賀市内) 奈良期、松原駅はどこにあったのでしょうか。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に松原駅の駅馬は8疋になっています。 北陸道は小路に格付けられて、各駅の駅馬は5疋に定められたのですが、松原駅だけは8疋でした。 これは松原駅が交通の要所に位置し、駅馬の利用が多かったからといわれます。 福井県史によれば松原駅は、現在の敦賀市松島地区若しくは櫛川町あたりでないかと推測しています。 松原駅を出発した旅人は気比神宮の近くから木の芽山地を上って樫曲、越坂方面へ向かいました。 ◎ 越坂(敦賀市越坂) 越坂と書いて「おっさか」と読みます。地名は、地形から名付けられたものと推定され、もとは「コシサカ」、「オオサカ」とも呼ばれたそうです。 敦賀湾南東部に位置し、集落は樫曲(かしまがり)から木の芽道(旧北陸道)を北上した小峠上に立地しています。 古来、敦賀津と越前との往来には、この官道の坂を越えなければなりませんでした。 この坂を越えて葉原(敦賀市)を通過し、田尻(敦賀市)付近を経由してウツロギ峠へ向かったであろうと推測されます。 葉原は古くは飯原・榛原・半原とも記され、野坂岳北東部、四方を山に囲まれた谷底盆地の木の芽川左岸に位置し、集落の中央を木の芽道(旧北陸道)が通っていました。
◎ ウツロギ峠(敦賀市) 現在の敦賀市田尻から五幡に至る標高約170mの峠です。古くは五幡で作られた塩と今庄の酒が相互に運ばれ、敦賀湾東岸と木の芽道を結ぶ道が通っていました。 近代、JR北陸線の開通後は五幡から新保駅へ向かう道として利用され、大正時代には県道五幡新保停車場線として整備されました。 しかし、北陸トンネル開通後は五幡の住民が田尻にある田畑の耕作に利用するだけの道になりました。
◎ 五幡(敦賀市五幡) 敦賀湾の東海岸沿いにある集落で、地名は聖武天皇の天平20年(748)敦賀の海に蒙古が来襲した際、地内南西の山頂に五色の幡が翻ったことに由来するといわれます。 五幡の坂(五幡山)は古代の交通路(帰山路)の道筋にある山といわれ、杉津(敦賀市)へ通じていました。 天平20年(748)越中国守であった大伴家持の詠んだ「可敝流廻(かへるみ)の道行かむ日は五幡の坂に袖振れわれをし思はば」(万葉集)という歌があります。 また、「忘れなむ世にも越路のかへる山いつはた人に逢はむとすらむ」(新古今集)など、 付近の帰山と合わせて、何時はた(五幡)と掛詞にして帰郷の思いをイメージする地名として親しまれました。 当地は敦賀市最後の塩浦で明治40年(1907)まで製塩をしていました。古道は五幡の坂を越え杉津へ続いていました。 ◎ 杉津(敦賀市杉津) 敦賀湾の東海岸沿いに位置した集落で、東背面の山麓は鉢伏山系の急崖から運ばれた土礫により扇状地状の地形をしています。 西方の海岸は火山岩類で形成された岡崎山が突出し、砂州の発達により陸繋島になっています。 地名の由来は水辺(海浜)の津であるところから水津と称し、後世、杉の字を当てたといわれます。 明治初期の「滋賀県物産誌」によると「敦賀港に達する路程四里に過ぎざれども尋常の道にあらずして険阻なり。物品を運送するものは必ず路を海に取れり。 且つ敦賀より南条郡河野浦に達するの舟、風波に逢えば悉く此処に停泊し、或は此浦より直ちに陸路運搬することあり」と杉津に関した記述があります。 まして千年以上遡った奈良期はどのような状況にあったのでしょうか想像ができません。 明治29年(1896)国鉄北陸本線敦賀〜福井間が開通し杉津駅が開業しました。 しかし、昭和37年(1962)敦賀〜今庄間を北陸トンネルが開通し、新線が開業されたため廃線になりました。 地内に約65年間、杉津駅がありましたので嶺北地方からの海水浴客や臨海学校で賑わいました。 昭和52年(1977)北陸自動車道武生〜敦賀間が供用開始され、杉津パーキングエリアが設置されました。 現在は地内東部の山側を国道8号が通り、5〜10月は関西や中京方面からキス釣り客が訪れ賑わっています。 杉津から坂を上り比田(大比田、元比田)を経て、さらに急坂を登って山中峠に向かいます。
◎ 山中峠(敦賀市・南条郡今庄町) 敦賀市元比田と南条郡今庄町山中の境界尾根にある標高約390mの峠です。この峠道を古代の官道帰山路(かえるやまじ)若しくは鹿蒜道(かひるみち)が越えていました。 天長7年(830)に木の芽道が開通し、ここが官道になりましたが、山中越えは、その後も絶えなかったことが見えます。 「源平盛衰記」の白山神輿登山の事には「十五日にかえるの堂(現今庄町南今庄)、十六日には水津の浦(現敦賀市杉津)」とあります。 また、京へ攻め上った木曽義仲軍の先陣も、ここを通過した事が記されてあります。 近世、山中越えと呼ばれ、福井藩は口留番所を置きました。明治29年(1896)に開通した北陸本線は、この峠のほぼ下を山中トンネルで通過しました。 昭和37年(1962)の北陸トンネル開通で、この路線は廃止されましたが、舗装道路に姿を変え今も使われています。 旧道は廃道になりましたが、山中トンネルの両側から登り道があり、歩行は可能です。なお、今庄側は緩やかですが敦賀側は急坂です。
◎ 鹿蒜駅(南条郡今庄町南今庄) 山中峠を越え鹿蒜川に沿って東へ下りますと、その下流域に鹿蒜駅(かえるのえき)がありました。 平城宮で発掘された木簡に「返駅子」とありますが、この返駅とは鹿蒜駅のことだそうです。 「和名抄」の郷名に敦賀郡に「鹿蒜」があります。この郷は南条郡鹿蒜村帰(旧名)に比定されています。 この頃、鹿蒜谷一円は敦賀郡域に入っており、現在の河野村の一部まで鹿蒜とみなされていました。 ついでに南条郡名が初見されるのは江戸期の寛文4年(1664)といわれます。 鹿蒜が転化したと思われる大字「帰」には式内社鹿蒜神社があり、旧鹿蒜村で最も古い集落と考えられています。 官道は鹿蒜駅を過ぎると藤倉・鍋倉の山ぎわを通り三ヶ所山の裾をまいて湯尾峠を越え「淑羅(さわあみ)」に向かいました。
|